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真田ジャパングループは、昭和23年に古物商として創業した“五月女商店”が始まりです。
永年にわたり多くのお客様と地域の方々に支えられ今日まで至ることができました。
その軌跡をぜひ知っていただきたく、私たちの今日までの歩みをご紹介させていただきます。

昭和23年→昭和60年 昭和23年→昭和60年

〈 第一創業期 〉

昭和23年
五月女商店 創業

創業者である五月女為造が、
満州から引き揚げ後に小山市にて金属等の古物取扱い業務として“五月女商店”を
開始。その後、拠点を塩原に移した。

昭和43年
9月4日
有限会社西那須真田 設立

東京を拠点に空瓶業を展開していた株式会社真田から、
那須地域での拠点開設の依頼を受け、会社設立を決意。
空瓶の卸売業として有限会社西那須真田を設立。

昭和47年
5月
二代目社長 五月女 明 氏 入社

高校卒業後、人に使われることを学びたく、東京の同業他社で修業をする。
1年間の丁稚修業後に実家に戻り、有限会社西那須真田に入社(19歳)。

新規開拓営業開始

丁稚修行を終え実家に戻ると社長である
父が50万の中古トラックを
用意してくれていた。そのトラックに
乗り、配達の合間に新規開拓営業を開始。

人は清潔感が無いと相手にされないと思い、シャツ、ズボン、靴まで真っ白な服装で、飛び込み営業を行った。この時に綺麗な服装の大切さを学ぶ。

昭和57年
白河営業所 開拓

福島県に顧客がいたことから、新たな拠点を設けようと福島県白河に
拠点を開設した。社長である父からは反対されていたが、母親が背中を
押してくれたことで決断に至った。結果的には従業員の管理ができず、
3年で撤退することになった。損失は600万円にもなったが、
父は一切怒らなかった。

空瓶問屋業として
成長

一方で問屋業としても空瓶の持込みが増えて、車両10t車を
3台所有するまで会社は成長した。

昭和59年
12月
大田原市から不燃物処理を受託

売上は上がっていったが利益はほとんど出ずに苦労した。社長の給料も
十分に取れなかった。空瓶の仕入では、同業との価格の競り合いになり、
販売は売り先が大手ビールメーカーだったために価格決定権がなかった。
次第にこの事業・業界に限界を感じるようになった。そんな状況の中で
行政から初めての委託業務を受けるようになった。

昭和60年
4月
西那須野町から一般廃棄物収集運搬処理を受託

廃棄物業へ進出するキッカケとなる行政からの委託業務を
受託することになった。

昭和60年→平成17年 昭和60年→平成17年

〈 第二創業期 〉

昭和60年
12月30日
産廃のキッカケ

空瓶の回収途中に、大手住宅会社の建築現場を発見。端材等のゴミを
見て、処分に困っているのではないかと思った。妻に直ぐに営業に行く
ように連絡。この事が産廃回収の事業を始めるキッカケとなる。

平成元年
産業廃棄物収集業務 開始

住宅会社からの廃棄物業務を本格的に開始するため、
受付するFAXと2tの専用トラックを10万円で購入。

平成3年
主力顧客からの取引打ち切り

産廃回収の主力顧客の1社から単価が高いとして突然取引を打ち切られた。
売上が上がっているから良しとするのではなく、お客様の立場で考え、
お客様の声を聞く姿勢が必要であることを知る。

平成4年
有限会社から株式会社へ

有限会社から株式会社へ商号変更。
資本金1000万円に増資。

平成6年
9月1日
二代目社長に交代

創業社長から二代目社長の五月女 明 氏へ交代・就任。

あの会社へ入りたいと言われる会社にしたい

仕事はあるが、従業員の雇用に大変苦労した。入社しても出社して
来なかったり、すぐに辞めたりと定着の面でも苦労した。このころから
"あの会社へ入りたい"と思われる会社に変えていこうと決意する。

蝶ネクタイの
ユニフォーム導入

現在でも当社の象徴・シンボルである
蝶ネクタイとユニフォームを黄色いワイシャツに変更。

平成7年
11月
メディア掲載

企業理念やユニフォームの珍しさが注目を浴び、
メディア(地元新聞、NHK等)に取り上げられるようになる。

平成11年
株式会社日本リサイクルアドバイザー 設立

宇都宮市に廃棄物の収集運搬を行う
株式会社日本リサイクルアドバイザーを設立。

廃棄物事業の成長

廃棄物事業も順調に成長。売上比率が空瓶業を大きく越えるように
なっていき、利益も大幅に増加していった。

平成13年
11月
ISO14001認証取得

他社との差別化を図る為に、同地域では先駆けてISO14001を導入した。
しかし、この導入がきっかけで役職者4名が一斉に退職。
退職直後は混乱したが、結果としては一般社員の成長に繋がり、
社内・社風の改善に繋がった。

業務上の事故

工場で死亡事故が起きてしまう。社長は会社を閉じることも考えて
いたが、亡くなった社員のお母さんから「いつも会社に楽しそうに行って
いた。息子の死は大変悲しいが、これは本人の寿命だから、どうか事業を
継続してほしい」と言ってもらえた。社長は、「元気に朝出社してくれる
社員は、必ず安全に元気に帰宅してもらう」この事を心に強く誓った。

平成17年
1月
真田ジャパンに社名変更

平成16年の市町村合併により、西那須野町がなくなる。
それを機に社名変更を決意。当時から「真田さん」と呼ばれることも
多く、また今後、より会社を大きくし、日本全国に名が知れ渡る時が
来ることを願い、社名を真田ジャパンとした。

人員不足による
悪循環

仕事が順調に増えていった結果、夜まで回収業務を行うことが
当たり前となってしまう。当時はお客様の要望にスピーディーに
応えようと、一生懸命であった。しかし、これは社員の疲弊を
増長させることになり、退職者が相次いだ。仕事量と人員体制の管理が
できておらず、更に業務の効率化が図れていなかった。

顧客の減少

産廃の業務は、収集運搬のみだったが、費用が他社より高く、徐々に
顧客が減少していった。

平成17年→令和3年 平成17年→令和3年

〈 第三創業期 〉

平成17年
10月
那須高原リサイクル
パーク株式会社 設立

産廃の処分業への参入を決意。グループ会社を設立。

平成18年
4月
ご家庭なんでも応援隊
事業開始

地域に貢献する事業を目指し、地域に
暮らすお客様をサポートする"ご家庭なんでも応援隊事業"を立ち上げる。

平成20年
1月
処分業許可の取得

那須高原リサイクルパーク株式会社で
許可を取得。処分業の創業であり、
最初は、株式会社真田ジャパンに
頼りながらのスタートとなった。

市町村の回収業務が競争入札へ

随契から競争入札になり利益が大葉に減少。次回(5年後の入札)は
落札できないかもしれないとの危機感を覚え、
その時から新たな柱となる事業の構築を考える。後の"ご家庭なんでも
応援隊事業"の全国展開へと繋がっていく。

大口顧客の内製化により売上が大幅減少

大手ハウスメーカーが廃棄物処理を内製化することになり、
年間で数千万円の売上がなくなった。

リーマンショックにより賞与を一部カット

リーマンショックにより仕事が大幅に減少。2008年冬の賞与は、
一部削減となった。しかし、翌2009年の夏の賞与時には、
昨年削減した分を上乗せして支給することができた。

平成24年
4月
ご家庭なんでも応援隊事業 全国展開開始

ご家庭なんでも応援隊のサービスを全国に展開する為、
パートナー企業の募集を開始する。

グレートカンパニーアワード
「働く社員が誇りを感じる会社賞」受賞

㈱船井総合研究所 グレートカンパニーアワード「働く社員が誇りを
感じる会社賞」受賞。

平成30年
6月
五月女 明 代表取締役会長に就任
五月女 大造 代表取締役社長に就任

事業承継を見据え、そして、更なるグループ会社の発展・成長の為、
共同代表へと移行する。

令和2年
12月
株式会社日本リサイクルアドバイザーを
解散・吸収

経営資源を集中させるため、宇都宮市の
株式会社日本リサイクルアドバイザーを真田ジャパン本体へ吸収。

令和3年
5月
真田ジャパン本社の
新社屋竣工

事務所を一新するために新社屋を建設。